アンパンチ再考
いつの間にか涼しくなりまして、クーラー君も今年はお役ご免だなと考えておりますと、はや二学期が目前に臨んでおりました。
さて、今回はちょっと古い話題ですが「アンパンチ論争」について色々考えてみましたので、ここに記したいと思います。
といっても、この問題は連日取り上げられたわけではありませんから「アンパンチ論争?そんなもん話題になってねえよ!」と仰有る方がいらっしゃるかもしれません。この問題は、皆様ご存知「アンパンマン」という作品に登場する「アンパンチ」という描写についての論争です。何でも「アンパンチは暴力的な表現で、教育上こどもたちに悪影響を与える」という意見がネット上で注目されているだとか。
もちろんこれは馬鹿馬鹿しい話です。
アンパンチを問題ある表現とするならば、あらゆる表現が規制されなくてはならなくなり、きりのない事態に発展します。遂には芸術そのものが機能不全に至るでしょう。
そのような多大な損失をもたらす選択をするより、「何でもかんでも真似するもんじゃありませんよ」とお母さんが子どもに諭す方が合理的です。
仮にアンパンチの描写が原因で子どもが暴力をはたらいてしまうなら、それはそれで良いことです。アンパンチで子どもに暴力を促すということはつまり、子どもに失敗をする機会を与えるということでもあります。子どもが失敗をすれば、辛い目にあったり、大人や友達から指摘されます。その度に子どもは自分の行いを顧みて、変わります。これを「成長」というわけです。子どもの暴力は取り返しのつかない事態に発展することはないので、この頃が失敗をさせる絶好の機会と言えるでしょう。いわば予防接種です。
ですから、我々は「アンパンチは問題ない」と認識するべきなのです。
このように、このアンパンチが健全な表現であることは論を俟(ま)ちません。そして、このままではわたしは、しょーもない愚論を論破して満足するくだらぬ男になってしまうのですが、話はここで終わりではありません。
この馬鹿げた命題ですが、わたしはここから着想を得て次のような新しい命題を作ってみました。
アンパンマンは脅威に対処する手段としてアンパンチしか実施しない。これは子どもたちの想像力の発展に貢献しない。
どうでしょうか。アンパンチは時に「暴力」と呼ばれ、時に「一時的に脅威を遠ざける為のまほう」と解されるわけですが、何れにしても腕力に訴えて半ば強制的に問題を解決していることには変わりありません。そして、こうした展開が常態化しているわけです。 これでは「問題を如何にして解決するか」という思考を子どもに促すことはできません。
逆に言えば、アンパンマンという作品がこの問題を克服するか、あるいはこの問題を克服した新しい作品が生まれれば、我が国の教育は発展できるのです。
具体的にどのようにして克服するかと言えば次のようなものが挙げられます。
・毎回、脅威に対処する手段が異なる(暴力、交渉、和解…等等等)。
・脅威に対処する前に「テレビのみんなどうすればいいのか考えてみよう」等という形で子どもたちに思考を促す。
・三幸靖麿呂が作品を監修する。
どうでしょうか。このような作品を見て育つ子は、想像力や論理的思考が豊かになるとは思いませんか。
そうだ!わたしがこういう作品を作ってやろう。この三幸靖麿呂がやなせたかしに次ぐ絵本作家となるのだ……というのはほんの冗談です。
ともかく、一見馬鹿みたいな命題も深く考えると飛躍的に発展します。「この主張は丸かバツか」という見方では、馬鹿げた命題は馬鹿げた命題のままです。「この主張は明らかに間違っているが、ここから着想を得てもっと面白い問いを発見できるだろうか」という見方もあると、より豊かな議論ができるかもしれません。
最後までお読み頂きありがとうございました。