世界は一つなのかな
(東京にて、子どもたちと戯れるジョンソン首相)
イギリスのボリス・ジョンソン首相がブレグジット(イギリスのEU離脱のこと)に向けて活躍していることは、皆様もテレビ新聞等でご存知のことと存じます。あらゆる人種、民族を同じ「地球市民」とし、全ての国境を取り払う思想を「グローバリズム」と呼びますが、ボリス・ジョンソン首相が行っていることはこれとは逆の「反グローバリズム」な政策であります。
反グローバリズムといえば、この動きのきっかけとなったのはやはりトランプ大統領であると考えます。彼はアメリカとメキシコの間の壁と、自国の産業を守る為の関税という壁を建設しました。
フランスでは「黄色いベスト運動」というものが起こります。
経済回復の為の減税と財政出動を訴えたこの運動ですが、これらの政策に立ちはだかるのはEUでした。ヨーロッパを一つの国にしたい
EU。しかし、もしそうなればフランスは自国の為の経済政策を行えなくなります。したがって、この運動の本質は反グローバリズムであると指摘されています。
そして、ブラジルのトランプと呼ばれる「ボルソナロ」大統領は移民の規制を叫びます。
このように、トランプ大統領就任以来、世界は反グローバリズムという方向へ動きつつあるわけです。こうした変動について、マスメディアの認識はおおよそ危惧的なものです。おおよそこんな具合に、
「世界は一つになろうとしていた。しかしトランプ大統領によって様々な人種、民族の絆が失われようとしている。反グローバリズムという動きは、自分とは違う人を偏見して排斥(はいせき)しようとする動きだ。あるいは、貧困などによる閉塞感から出る疑心暗鬼だ。このままでは世界はバラバラになる」
そしてこの世界観に基き、こうした物語性を付け加えるわけです。
「世界中の人々と分かりあおう。そしてみんなで世界をもう一度繋ぐんだ」
以上のことを唱えるメディアや表現者、そしてそれに感化される人々は多いように感じます。
しかし、わたしは彼らに言いたいのです。もう一度立ち止まり、再考する余地はないかと。本当にグローバリズムは正しかったのかと。「世界は一つ」という考え方に、反省の余地はないかと。
というわけで、本稿はグローバリズムについて、様々な観点から見直してみます。
■「グローバリズムでみんな仲良し」は本当?
大体のグローバリストはこう考えます。国境をなくし、色んな人種の人が同じところに住めば、色んな考え方が分かるようになり、したがって仲良くなれると。だから戦争もなくなるんだよ、というのが付け足されている場合も多いです。
しかし、わたしの教室には、わたしとは全く違うタイプの人間がたくさんいます。派手な髪型をする人だとか、化粧の濃い人だとか。しかし、わたしの考え方は広まるどころか、狭まっていきました。こうして「派手な髪型をする人間即悪人説」と「厚化粧の女即愚か者説」が育まれていきました。わたしは彼らが嫌いなのです。
「ただの偏見じゃあねえかよォ」と思われるかもしれません。そして、それは全くの正論です。しかし同時に「色んな人種の人と一緒に住めば考え方が広がる」というのもまた偏見の一つに違いないのです。なぜなら、その考えは「ある時、自分とは別な人と関わってみると考え方が広まった」という個人の経験に基づくものだからです。
個人の経験で議論をするというのは途方もないことです。たくさんの目の見えない人が象に触れている様子を想像して下さい。ある人は耳に触れて「これは扇だ」というでしょう。ある人は足に触れて「これは柱だ」というでしょう。
そういうわけで、わたしたちは個人の経験を超越した視点で物事を考えたいものです。それが「データ」です。
政治学者のR・パットナム先生は、以上の問題を個人の経験に頼らず、「データ」によって研究しました。
パットナムらの調査は、アメリカ国内の四十一の地域に住む三万人弱の住民を対象とするもので、二◯◯◯年に実施された。人種や民族は細かく分類すると切りがないため、パットナムらはヒスパニック・白人、黒人、アジア系という大分類を採用し、いずれか一つの人種が大多数を占める地域は「同質的」(多様性が低い)、人種間の比率が拮抗している地域は「異質的」(多様性が高い)と評価することとした。そして同質的な地域と異質的な地域を比較して、「異なる人種感での信頼感」や「同じ人種内での信頼感」にどのような違いがあるかを分析している。
一部の人種が大多数を占める「同質的」な地域と、多様な人種が拮抗する「異質的」な地域を見比べてみたというわけです。そうするとどうなったか。
その結果は興味深いものだ。まず、地域が人種的に多様であればあるほど、「人種間」の信頼感が低いという傾向があった。たとえばロサンゼルスやサンフランシスコは特に多様性の高い都市であるが、これらの地域では、自分とは異なる人種の人々を「とても信頼している」と答える住民は極めて少ない。逆に、サウスダコタ州の田舎街ではほとんどの住民が白人であるが、異人種の人々に対する信頼感は全ての都市中でずば抜けて高い。
「表現者クライテリオン」2019年7月号 啓文社書房より
川端祐一郎 『「多様性」が社会の活力を奪うという逆説』
なんということでしょう。様々な人種が距離を詰めれば詰めるほど、彼らの仲は悪くなるのです。
そういうわけで、住む場所をいっしょにする場合はある程度「こんな民族を共有している」とか「こんな文化を共有している」などの「同質性」があった方がいいということが伺えます。
■「グローバリズムで平和」は本当?
グローバリズムを進め、国境をなくしていけば、貿易がさかんになります。そうすると、世界の国々は貿易に依存するようになります。そこでグローバリストの方々は、「グローバリズムを進めれば戦争がなくなる」と主張するわけです。何でも、戦争を始めると戦争の相手国との貿易ができなくなるわけですし、周りの国々も制裁を課してくる恐れがでてくるというわけです。
しかし、歴史を振り返って考えてみると、この理論は疑わしいものです。
例えば第一次世界大戦。ドイツとイギリスは戦争を行いました。しかしドイツにとってイギリスは最大の貿易相手国ですし、イギリスにとってもドイツは二番目の貿易相手国だったのです(ソース:「世界を戦争に導くグローバリズム 」中野剛志 集英社)
まあ多少の抑止力にはなるかもしれませんが、上の例を見る限りはそれほど強力なものとも考えにくいものです。
■「グローバリズムで経済が良くなる」は本当?
経済学者の主流派達は、法律で企業を縛りつけるより、自由にビジネスをやらせた方がいいと言ってきました。そういうわけで、国境という大きな「縛り」を取っ払うグローバリズムも、正しいことだとしてきました。自由にビジネスをやらせるということは、競争が激しくなることです。競争が激しくなると、企業は生き残る為に努力します。彼らによれば、この努力によって生産性が向上するようです。しかしこのグラフを見て下さい。
下の棒グラフは日本の輸出額です。2000年から2009年のリーマンショックが起こるまで、日本の輸出額は急激に伸びて行きました。これはつまり、自由貿易が進んだということです。ところが上の線グラフ。これは我が国の平均給与ですが、輸出額が増えるにともなって、上がるどころか下がったではありませんか!
経済とは、国民を豊かにする為にあるものです。競争が促進されようが何だろうが、国民が貧しくなっては本末転倒ではありませんか。
因みになぜ自由貿易が進むにともなって我々が貧しくなったかというと、それは簡単なことです。
発展途上国に工場を作り、そこで人を雇うとなると、日本から人を雇うよりも安くなります。発展途上国では元々賃金が低いので、比較的安い給料でも人を雇えるのです。そうして、「日本人の労働者」の貴重さは失われていきます。必然、日本国内における賃金は下がっていくのです。
このように、自由貿易を進めると、先進国の賃金が発展途上国のそれと近づいていくようです。
そもそも、競争を促し、生産性を向上させるのが自由貿易の目的の一つなのですが、これもおかしい話です。我が日本国は、デフレ下にあります。過去の投稿で述べた通り、デフレは供給が需要より多い為に起こる現象です。この状態で生産性を向上させるということは、供給を上げるということです。余計にデフレが深刻化するやんけ!
つまり自由貿易とは、物不足(需要が供給より多いこと)に陥っている発展途上国や、景気の良いインフレの国にのみ有効な政策なのです。
■「グローバリズム→国際分業→合理的」は本当?
「比較的優位論」という理論があります。これは、分業を行えば生産性が高まるという理論です。国にはそれぞれ得意分野があります。ですから、それぞれが得意な分野の生産を行えば、地球上に生まれる物の数が多くなるというわけです。
しかし、物の生産を一ヶ所に依存するというのは何とも危険なものです。紛争、不況、災害などの要素で、国の生産が壊滅的になったり、外国から物を輸入できなくなるということは充分にありえます。上の表の例ですと、紛争等の問題が起きて、乙国が甲国より稲を輸入できなくなるかもしれません。何らかの災害が起きて、甲国が大凶作に陥るかもしれません。
ですから、物の生産はある程度分散されていた方が安全なのです。
実際に1993年。この時、日本が恐るべき冷害に陥り、「米騒動」と騒がれたのは皆様の記憶に懐かしいものと思われます(わたしはまだ生まれていないけれども)。この時、日本はタイ米を輸入しました。日本人の口にはあまり合わなかったようですが、国民の飢餓を回避したのです。因みにこのタイ米、炒飯などにするとパラパラして、大変美味しかったと聞きます。
では、もし米の生産が日本の一ヶ所に集中していたとしたらどうでしょうか。タイは他の産業に専念し、日本はタイの分まで農業に勤しんでいたというわけです。この状態下であの米騒動が起きたと考えると、背筋が凍ります。日本はタイに助けてもらえないし、タイも米を得る手段を失うのです。
このように、国際分業が進み過ぎると、たった一つの事件で世界中がヤバいことになるのです。
現にその「ヤバいこと」は過去に起こっています。それがリーマンショックです。リーマン・ブラザーズというたった一つの企業の破綻は、世界中に波及したのです。
■あとがき
我々はこれまでグローバリズムを素晴らしいこと、そしてナウなことであるように捉えてきました。しかし、今世界で、特にヨーロッパで起きているのは反グローバリズムへの変動なのです。グローバリズムをナウいこととしているのは我が日本だけなのです。
世界中の人々がグローバリズムの欠陥に気付いている中、わたしたち日本人が未だにグローバリズムを盲信し続けているというのは、危険なことであると考えます。ババを引かされるのはいつも無知な者なのです。
さて、この日本国において、わたしのような反グローバリズム主義者は「差別主義者だ」と差別されるわけですが、わたしは決してそのような者ではありません。わたしには大変頭の良い中国人の友人がおります。わたしは彼を親愛しておりますし、そのこととわたしの思想は矛盾しないと考えております。
わたしが申し上げているのは、結局は「距離感」の話です。世界諸国民はわたしたちの友達ですが、友達といえども一定の距離を置かねばならないわけです。ちょっと鬱陶しい友人がいたら、「君は距離感を間違えているぞ」と諭すのは当然のことです。それにも関わらずグローバリストの多くは「友達を大切にしないなんて最低だな!」などと的外れな指摘をするのです。
これまでの世界諸国は、距離感を間違えてきました。ですから、反グローバリズム自体は正しい動きです。
とは言え、悲しいかな人類はいつも極端です。反グローバリズムが流行すると、今度は病的な個人主義へ向かいはじめる予感がします。国境が必要なら県境も必要だ。県境が必要なら町境も必要だ。町境が必要なら家境も必要だ。家境が必要なら人境も必要だ…といった具合に。そうすると、美しき「日本」は消えてしまうでしょう。ちょっと考え過ぎだと言われるかもしれませんが、現在のこの様子を見るにやりかねないことです。
なんでもかんでも極端にしてしまう人類の為に、ここでちょうどいい基準を記しておきましょう。それは「国」です。国とは、共通の「国民意識」(ナショナリズム)を有する国民が形作る集団です。
国民意識とは読んだ字の如く「わたしは日本という国の民だ」という意識です。国民意識は、文化や歴史の上に芽吹くものです。その為、同じ国民意識を有する集団、つまり同じ国民の間では、常識や価値観が共有されるのです。
わたしたち日本人が同じ日本で住めるのは、わたしたちが同じ国民意識を持つ為です。わたしたち日本人が同じ法律を守るのは、わたしたちが同じ国民意識を持つ為です。わたしたちの企業が、日本の中であれば自由にビジネスできるのは、わたしたちが同じ国民意識を持つ為です。
もしも国民意識がバラバラの集団が、強引に国という体(てい)をなそうとしたらどうなるでしょう。それは今のヨーロッパを見れば分かります。EUはヨーロッパを一つの国にしようとしました。そうしてヨーロッパ中から国境を取っ払い、人々が自由に行き来できるようにしたのです。しかしその結果、ヨーロッパの多くの国では、他民族への憎悪が爆発し、激しいデモが連続しています。これは、「ヨーロッパ人」という国民意識がなかった証拠です。
以上のようなことにならぬよう、国境は必要なものなのです。
わたしたちは日本人であると言い張った上で、諸外国と交流しましょう。彼らもまた、「わたしは何とか人だ」と言い張るでしょう。そして、互いに互いの言い張りを尊重しあうのです。この思想を「インターナショナリズム」と呼びます。
■付録 新連載「素晴らしきかな表現!」
第一回 グローバリズムを徹底考察した「メタルギア」
これは文化的な啓蒙の為に行うものです。政治経済とはあまり関係ないので、興味のない方はどうぞ容赦なく読み飛ばして下さい。まあ、新連載とは言ってもこれが最初で最後かも知れませんが。
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小島秀夫監督の「メタルギアソリッド」シリーズ。家庭用ゲームです。ゲームを論ずることによって、サブカルチャーに媚を売ってみようと思いました。
このゲームの特徴は何といっても「ステルスアクション」という画期的なシステムです。従来のアクションゲームといえば、出てくる敵を次々と倒して進んでいく感じです。しかしメタルギアの場合、できるだけ戦闘を避け、敵地を潜入するのが原則となります。この原則が、今までのゲームになかった手に汗握るスリルを呼び起こすのです。
その他にも、どのゲームにもない「オープンワールド性」や緻密に張り巡らされた「ユーモア」など、メタルギアの魅力を語り出すとちょっと四時間くらいかかりそうなのですが、今回はその「物語」について特筆したいと思います。
第二次世界大戦終結後、世界は東西に二分された。冷戦と呼ばれる時代の幕開けである。
メタルギアソリッド3 スネークイーターより
本シリーズ時系列の最もはじめとなる「メタルギアソリッド3」はこのナレーションで開幕。本作の主人公「ネイキッド・スネーク」はアメリカの非公式部隊「FOX」の隊員。ソ連に潜入し、秘密兵器の完成の阻止を目指します。
しかし、そこで立ちはだかるのがかつての師匠であり、恋人でもあった「ザ・ボス」。彼女はソ連への亡命を宣言し、スネークの任務を妨害します。こうしてスネークは「ザ・ボス」の殺害を命令されるのでした。
さて、本作にはグローバリストが二人登場します。一人はソ連で秘密兵器の開発を主導していた男「ヴォルギン大佐」。彼は秘密兵器の完成によって圧倒的な軍事力を掌握(しょうあく)し、その力によって東西に引き裂かれた世界を再び一つにしようとします。
もう一人はザ・ボス。彼女はアメリカで秘密裏に行われた有人宇宙飛行実験の被験者でもありました。
その時私は宇宙からこの星を見た
そして全てを悟った
(中略)
見ればお前にも分かるはず
地球には国境などどこにもない
まして冷戦や東西の線引きなどどこにもない
彼女は弟子であるスネークとの決闘の前に、こう言い遺すのです。
では敵とは何だ
時間には関与しない『絶対的な敵』とは
そんな敵は地球上には存在しない
なぜなら敵はいつも同じ人間だからだ
『相対的な敵』でしかない
世界はひとつになるべきだ
メタルギアソリッド3 スネークイーターより
しかし、メタルギアのストーリーはここからが重要です。
後に主人公スネークと、彼の司令官であるゼロ小佐はザ・ボスの思想を実現しようとしますがいずれも失敗に終わるのです。
スネークはザ・ボスを越えた男「ビッグボス」と呼ばれ、国家から独立した民間軍事勢力「アウターヘブン」を組織。これにより、地球上の「力の均衡」を保とうとしますが何やかんや失敗に終わります(1984年 メタルギア)。
ゼロ小佐はアメリカの裏で「サイファー」を組織。人類の無意識をAlに接続し、統制することで世界に規律をもたらそうとします。しかし、これも何やかんや失敗に終わります( 2008年 メタルギアソリッド4 ガンズ・オブ・ザ・パトリオット)。
結局、わたしにはまだ小島監督がグローバリストなのか、反グローバリストなのかは分かりません。しかし、小島監督が誰よりも徹底的にグローバリズムを考察した表現者であることは確かだと考えます。
グローバリズムを根底とする作品は大抵、「世界は一つになるべきだ→世界を一つにしよう!→みんな仲良く万々歳」という筋書きですが、メタルギアの場合は「世界は一つになるべきだ→じゃあどのように一つにしよう?→あれでもない、これでもない」と、考えさせられるものになっているわけです。
メタルギアシリーズの物語は「遺伝子」「デジタル」「核抑止」「軍産複合体」など、様々なものがテーマになっています。政治経済に興味のある方には、お薦めしたいゲームです。
小島監督作品の最新作をプレイしたいという方は、今年の11月8日をお待ち下さい!この日「デスストランディング」という作品が発売予定です。
デスストランディングの情報は少しずつ公開されていますが、未だ全貌の見えない謎多き作品です。
小島秀夫によると「DSはステルス・ゲームとは違います。主観で進む事も出来ますが、FPSシューターでもありません。全く新しい繋がり(ストランド)の概念を取り入れた、これまでにないジャンルのアクション・ゲーム、ストランド・ゲーム(ソーシャル・ストランド・システム)と呼んでます。」であるとし、ゲームジャンルについてはいわゆるアクションゲームだが、従来のゲームジャンルには囚われないと語っている。
ソーシャル・ストランドシステムとは一体何なのでしょうか。それが分かるのは、わたしたちがこの作品をプレイした時となりそうです。メタルギアが「ステルスアクション」という新ジャンルを作ったように、この作品が新ジャンルを開拓する予感がします。
因みにわたしは決してコジマプロダクションの手先ではございません。
今週は蛇足に近い新連載の導入によりかなり長い投稿となりましたが、最後までお読み頂き誠にありがとうございました。
完