僕の名は靖麻呂

高校生 政治厨 軽度の神経衰弱

『美』について

 英語検定と中間テストを同時に控えておりますので、今回は手抜き論考でございます。もし本ブログを楽しみにしておられる方がいらしたら、本当に申し訳ありません。

 さて、突然ですが、皆様は正義とは何だと思いますか。あるいは道徳とは何だと思いますか。もしくは善とか、責任とか、真実とか。

 わたしたちは、これらの概念を巡ってよく言い争いをします。「それは正しくないだろ」「それはお前の責任だろ」「それは証明できてないだろ」という具合に。そしてそれは、かなりの高確率で不毛な水掛け論に帰着します。

 なぜ水掛け論になるかと言うと、ある方は「どちらかが非常識だから」と結論します。ある方は「人によって考え方、感じ方が違うから」という結論します。哲学に明るい人は「そもそも三幸が列挙した概念は全て架空のものであり、存在しないから」という進歩的な答えを下すことでしょう。

 しかし、正義とか善はやはり存在するものと信じたいものです。わたしの心の中には、断固として守りたい何かが感覚として確かに“在”ります。「これは人の根本たるものだ」だと叫びたくなるような光景はたしかに“在”ります。それらについて、わたしはそれぞれ「正義」「善」と名付けているのです。わたしは小さい頃から、こうしたぼんやりしたものの輪郭を掴みたいと思っていました。哲学書を読み耽るような根気こそありませんでしたが、哲学者の真似事のような考え事をよく行っておりました。

 さて、考え続けて幾年か経ちまして、いよいよこの素人哲学が開花致しました。この哲学は「正義、道徳、善、責任、真実」その他諸々の概念は、ある共通の感覚を本質としていることを看破したのです。それはまさしく「美」です。美こそが、数多くの抽象的概念の本質なのです。

 例えば正義について考えてみましょう。ウルトラマンが怪獣をやっつけるのは、ほとんどの人にとって正義です。原爆ドーム前で不謹慎なことをする観光客に、敢然と注意する行為はほとんどの人にとって正義です。

 これらの、わたしたちが「正義だなあ」と感じる光景には必ず美しさが伴っています。すなわち、地球を守るべく怪獣と闘う巨人の美しさ。不心得な行いを看過せず、怒りを訴える勇気の美しさです。

 反対に「これは不正義だなあ」と思うものについては、必ず美しさが伴っていないはずです。例えば国民のお金で天下りをする官僚は不正義ですし、断じて美しくありません。道端に食べおおしたお菓子のゴミを恥ずかしげもなく捨てる男は不正義ですし、醜いこと甚だしいです。このように、正義の本質は美にあるのです。

 善についても同じことが言えます。磔にされ、石を投げつけられながらも「神よこの人たちをお許し下さい」と叫ぶイエスの姿は善いものでありますし、且(か)つ美しいものであります。ヘマを犯してテンパっている後輩に「焦らなくても大丈夫だよ」と優しく言う先輩は善い方ですし、且つ美しいものであります。

 責任もそう。有色人種に残虐無道な支配を行い、数えきれぬほどの拷問、虐殺を行ってきた連合国が、枢軸国の不の面を誇張し、さもわたしたちだけに責任があると主張する図は美しくありません。日本を戦争に追い込んだルーズベルト元大統領や、原爆を投下したトルーマン元大統領にも戦争責任があるとし、彼らを戦争犯罪者として処刑台に掛けるとすればまだ幾分かの美しさがあります。

 このように、誰がどこまで責任を負うのかという基準もやはり美にあります。

 また、多くの学問の発達も実は美に端緒(たんしょ)があります。というのは、こちらをご覧下さい。

f:id:miyukiyasmaro:20191004234426j:image

 砂鉄が何か規則的な形に並んでいますね。

 「この砂鉄がこのような形で並んでいるのは、何らかの力が加わっているからだ」という解釈と、「この砂鉄がこのような形で並んでいるのは、ただの偶然に過ぎない」という解釈は、どちらが釈然とするでしょうか。多分、皆様は前者を選ぶと思います。後者の解釈をとるのは、何か気持ち悪いしこりがあります。なぜ気持ち悪いしこりがあるかといえば、砂鉄に見る規則っぽい感じを無視するからでしょう。この規則っぽい感じはどこから来たかというと、やはり美です。美といっても、原始的な次元の美ではありますが、ともかく美です。先ほどの画像を見て規則っぽいなと感じるのは、そうした感性に引っ掛かったということです。

 このように、わたしたちは美に引っ掛かる現象に注目して学問を発展させてきたのです。

 因みに、この「美に引っ掛かる現象」について釈然とする解釈を与えることは「証明」と呼ばれます。画像の例で言うと「砂鉄が規則的な形に並んだ。従って磁石は金属に何らかの力を及ぼす」と唱えることは証明と見なされるわけです。

 

 このように、数々の抽象的概念の本質は美にあるというのがわたしの考えです。この理論は葛藤したり、議論が水掛け論になったりした際、極めて有効であると自賛します。

 例えば「どっちが正義なのか」と頭を抱えるよりも「最終的に美しいのはどっちなのか」と置き換えた方が早く済みます。「どっちの責任か」と腕を組んで首を傾げるよりも、「どのような責任の取られ方が美しいか」と置き換えた方が早く済みます。美は正義や責任とは違い、純粋な感情なのですから。

 

 ……ちょっとどうでもいい話でしたね。お粗末様でした。

 

・付録「心の曼陀羅


f:id:miyukiyasmaro:20191005190458j:image

 これはわたしが考案した心の略図です。今回の理論に則って書きました。美が欲に含有されており、別個の物ではないという点は我ながら独特だと思います。なぜこういう形かというと、こう考えた方が釈然とするからです。「飯を食べたい」「眠りたい」などという欲の内、「誰かを救いたい」といった「美しい欲」が美に分類されるのではないかと仮説します。

 最後までお読み頂きありがとうございました。