僕の名は靖麻呂

高校生 政治厨 軽度の神経衰弱

天皇陛下万歳!

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 この度、 天皇陛下即位式が執り行われまして、心よりお慶び申し上げます。

 わたしは徹頭徹尾、テレビ中継で式の様子を拝しておりました。朝から雨が降っており、それに加えて冠水した地域の報道も同時に行われておりまして、ちょっと心配でございました。後から聞いた話では、その頃、安倍総理が心を込めて書いた「万歳旗」が強風に煽られて倒れたとのことです。しかし、両陛下が高御座(たかみくら)に立たれる時には曇天は霧散し、快き晴れとなりました。驚くべきことに、その空には虹が輝いていたと聞きます。

 まるで何かの暗示だなと感心しまして、それから色々と考えまして、やはりきっと暗示に違いない、そういうことに違いない、そらめでたいぞと無邪気に興奮しました。それから安倍総理のお顔が突然テレビに映りまして、わたしは腹を抱えて笑ったのであります。と書いている今も、やはり笑いが込み上げてきます。ああ、おかしい。

 さて、このようにわたしは 天皇 とか 皇室 といったものを深く敬愛しておりますが、世の中にはそうでない方もいらっしゃります。「なんで俺が 天皇 なんかの為に税金を払わなければいけないんだ」とか「 天皇 は民主主義と矛盾するから廃止するべきだ」とか「 天皇 なんかカルト宗教だ」といった主張をよく耳にします。この記事を読んでおられる方にも、そうしたお考えの方はいらっしゃるかもしれません。

 これに対し、腹を立てる方はいらっしゃるかもしれませんが、「いや 天皇 というものはこういう尊さがあってね、こういう価値があって、だから大事なのだよ」と説得できる方というのは少ないのではないかと思います。わたしの母は 皇室 を尊敬しておりますが「なぜ天皇 は大事だと思う?」と訊いてみると、腕を組んで唸りました。では、この唸りこそ研究の出発点として、 天皇 について今一度考えてみましょう。

 

天皇 ってエンペラー?
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 外国の方はしばしば 天皇 のことをエンペラーと呼び、「ワーオ!ニッポンのエンペラーはとてもクールだね!」などと仰有ることがあります。しかし、我が国の 天皇 は王様や皇帝などの支配者とは明確に異なります。

 支配者は、権力と権威を手にする存在です。これは武力で国を支配しておりますから、政治を主導すること(権力)ができますし、その国の民をひれ伏させること(権威)もできます。

 しかし、 天皇 は政治的な力(権力)を持っておられませんが、多くの国民からの敬愛(権威)を得ています。

「知っとるわい!っていうか今時の民主主義国家は皆そうじゃい!日本特有の文化みたいに言うな!」

 そう思われるかもしれませんが、重要なのは 天皇 が権威だけをお持ちになるというのは遥か昔から続く伝統ということです。

 日本はずっと 天皇 が支配していて、敗戦時にアメリカのお陰で 天皇 がいわゆる「象徴」となり、我が国はようやく民主主義の道を歩みはじめた。というのが常識ですが、それは誤解です。

 皇室 にはほとんどの期間、権力はなかったのです。確かに古代や日本の存亡が危ぶまれるような一部の非常時、例えば明治維新から先の戦争の間には、 天皇武装され、大元帥という形をなされました。

 しかしこれは飽くまでも「形」であって、 天皇 が権力をお使いになるのは、極めて限定的な場合だけでした。具体的には、明治天皇 による日露戦争開戦の御聖断、そして 昭和天皇による日本の降伏の御聖断、この二つだけです。前者は御前会議(軍のトップや大臣が   天皇 の御前で行う会議)で議論がまとまらなくなった際、判断を求められた為の御聖断でした。後者は同じく御前会議で、全員が沈黙した為の御聖断でした。いずれも御前会議が会議として機能しなくなった時です。

 このように、 天皇 には権力を持たず、権威を持つという性格があったのです。

 

 ではなぜ 天皇 は権威として認められてきたのでしょうか。権力がないのに、どうして権威を保ち続けれたのでしょうか。 皇室 の歴史は神話の部分を省いても千年以上あり、世界の王朝をぶっちぎる長さになるといいます。そんな気の遠くなるような悠久の間、滅ぼされたりせず、権威として認められ続けたというのは不思議な話ではありませんか?

 実はこれは、「権力がなかったのに権威を保ち続けた」というより、「権力がなかったからこそ、権威を保ち続けた」という方が正確です。民が飢餓に陥ったり、天災が起きたりした時、その怒りの矛先は権力に向かいます。ですから世界中の王朝が直ぐに滅びたのは当然なのです。

 千年以上の間、権威だけを持ち続けた 天皇 とは、一体何なのでしょうか。

 

天皇 って何?
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 一言で言うと、 天皇 とは祭祀(さいし)です。 天皇 の御仕事は祈ることです。わたしたち国民の幸せを神に祈る祭祀こそ 天皇 なのです。

 あなたは神に祈ることがあるでしょうか。  天皇 は全ての日本人の祈りを神に届ける仕事です。だからこそ、日本人は 天皇 を心の拠り所としたのです。

 光格天皇の在位中、「天明の大飢饉」が世を襲い、全国的な一揆・打ちこわしが相次ぎ、なんと将軍のお膝元である江戸でも大打ちこわしが起こった。

 ところが天皇がおられる京都御所周辺には、全く違う光景があった。

 御所を囲む築地塀の周り、およそ千三百メートルを、廻って参拝する民衆が日に日に増え、わずか3日後にはなんと3万人もの老若男女に膨れ上がり、10日後にはとうとう一日に7万人もの人数に達したという。

 京都だけでなく、大阪からも集結してくる人々は正面の門に至ると賽銭を投げ、紫宸殿に向かって手を合わせ、一心に礼拝した。

 

ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論」                    小林よしのり 小学館

 

 天皇陛下は今もあなたやわたしの為に祈っています。

 

天皇 って神様?

 常識的な歴史観に則れば、日本人は 天皇 が神であると洗脳されていたことになります。日本は北朝鮮と同じように 天皇 を神格化するカルト国家だったらしく、アメリカのお陰で民主主義国家として歩み出したそうです(笑)。

 しかしこれは八割くらいしか正解でないと言えます。

 確かに先の戦時中の六年間は、小学校では過激な教育が行われました。この教育を経験した人たちのことを「少国民世代」と呼びます。しかし、それ以外の人たちは 天皇 を神だとは思っていませんでした。

 敗戦後「 天皇人間宣言」というものがありまして、「実は 天皇 は神様ではなく人間でした」 という発表が行われました。少国民世代はびっくりしたかもしれませんが、それ以外の青年、大人たちは「だから?」となったそうです。

 といっても、少し歴史に詳しい方は「 天皇は昔から現人神(あらひとがみ)って言われていたじゃないか!」と憤慨なさるでしょう。しかし、現人神というのは、「人ながらにして神様」という意味ではなく、「神様のように大事にすべき人」という意味でした。日本には古来から凄い人を神と形容する癖があり、若者が「あの店員マジ神対応だわー」などと言うのもある意味伝統的な現象です。勿論、その若者が店員を神格化しているわけではないことは、言うまでもありません。

 

神武天皇 っていたの?
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 我が国で一番はじめの 天皇 は「 神武天皇 」です。

 と、このように書くと、歴史学者から鼻に笑われるのが最近の風潮のようです。何でも、日本書紀によれば 神武天皇 の没年齢は127歳で、科学的に有り得ないとか。

 わたしとしては、 神武天皇 がおられてもおられなくても 皇室 の本質が変わることはないと考えますが、興味深いので検証してみましょう。

 まず、当時の日本では春秋暦というものがあったことに注目して下さい。春秋暦は、作物を育てはじめる春と、作物を収穫する秋を一年の始まりとする暦です。従って、現代における一年は、春秋暦にすると二年ということになります。

 では、 神武天皇 の年齢が春秋暦で数えられていたとすればどうでしょう。神武天皇 の没年齢127歳は、現代でいう63歳ですから、別に不思議ではありません。

 勿論、 神武天皇 の年齢が春秋暦で数えられたと断定することはできませんが、同時に没年齢について指摘して「 神武天皇 なんか科学的に有り得ない」と断定するのもできないはずです。

 

 また、 神武天皇 はいたとする科学的な指摘もあります。

 かなり長い引用となりますが、面白いので是非お読み下さい。

 そもそも、古事記日本書紀に書かれた神武天皇の「東征」は、地形学により「史実」であることが確定している。古事記には、神武天皇と大阪のナガスネヒコとの闘いについて、以下の通り描写されている。

「こうしてさらに、吉備の国から東へ東へと上っていったが、やがて一行の船は、波荒く立ち騒ぐ波速の渡りを過ぎて、波静か白肩の港に停泊した。この時、登美の地に住む那賀須泥毗古(ナガスネヒコ)、すなわち長い脛を持った男が、軍隊を起こして、東上してきた船を待ち迎えて一戦を挑んだ。そこで一行は、船の中に用意してあった楯を取り、岸辺に下りて防戦した。」

 ポイントは、「波速の渡りを過ぎて、波静かな白肩の港に停泊した」の部分だ。白肩とは、生駒山の麓のことである。生駒山は、現在の奈良県生駒山大阪府東大阪市との県境にある。つまりは、現在の大阪湾の海岸からは20kmも内陸に位置しているのだ。

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(中略)

 地形学が発達した結果、現在の大阪市のほとんどがかつては「内海」で、海岸線が生駒山の麓であったことが判明したのだ。現在のJR大阪駅の東(大阪駅の位置は外海だった)と、南から大阪城の位置まで突き出した半島との間に海峡があり、海が生駒山地の手前まで続いていた。

 つまりは、神武天皇の大阪行の表現は、地形的には「完全に正しい」のである。

(中略)

 海上ルートで生駒山の麓に向かうことが可能だったのは、いつ頃までだろうか。こちらも地形学の発達により、明確になっている。紀元前50年までである。

 つまりは、神武天皇ナガスネヒコとの戦いは、紀元前50年よりも「前」に行われたことが確実なのだ。

 

「帝国対民主国家の最終戦争が始まる」        三橋貴明 ビジネス社

 

 つまり、古事記に書いてあった地形の情報と、地形学による地形の情報が見事に一致していたということです。

 まあ、ひょっとすれば「昔、白肩は大阪の海岸だった」という言い伝えがあって、それになぞらえて古事記が書かれたという可能性もあるかもしれません。しかし、それにしても神武天皇の実在は極めて濃厚となったのではないでしょうか。

 

■あとがき

 どうでしょうか。 天皇 について皆様がご存知ないことをお伝えできたでしょうか。もしこれから 皇室 のニュースを見る時、これまでとはちょっと違った感じ方ができるようになって頂ければ、この上ない幸いです。

 これからずっと先、 皇室 が日本にあり続けることを心より祈ります。

 

 君が代

 千代八千代に

 さざれ石の

 巌となりて苔のむすまで

 

 

天皇陛下万歳