僕の名は靖麻呂

高校生 政治厨 軽度の神経衰弱

歴史を取り戻せ


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 十二月八日、我が国にとってとても重要なことが起こりました。あなたはご存知ですか。

 

 戦争です。

 

 日本の戦闘機が真珠湾の上空から爆弾を投下し、機銃から火を吹き、アメリカの基地を攻撃した日です。「真珠湾攻撃」と呼ばれるこの事件を以て、我が国はアメリカとの戦争を始めます。

 皆様ご存知の通り、この戦争はアメリカによる二発の原爆の投下によって幕を閉じます。真珠湾攻撃から原爆投下に至るまで、三百十万人もの日本人が犠牲となったと言われています。

 なぜ日本は、このような悲惨な戦争を始めたのでしょうか。歴史の教科書に従えば、それは軍部の狂気的な野望が暴走した為だということになります。だから日本は同じ過ちを繰り返さぬよう武器を捨てて「平和」にならなればならない、と続きます。

 しかし、それは本当に正しいのでしょうか。

 本稿では先の戦争を振り返り、教科書の裏にある歴史を確かめたいと思います。

 

■幕末から明治を爆速でおさらい

 真珠湾攻撃の本質を知る為には、いきなりですが幕末辺りまで遡る必要があります。

 それでは、幕末から真珠湾攻撃までの間を爆速でおさらいしてみましょう。

 当時、アメリカや欧州諸国は「列強」と呼ばれ、列強が有色人種を武力で支配していく弱肉強食の時代でした。アジアの国々が列強に飲み込まれていく中、日本の内部では、国の仕組みを根本的に変え、列強に負けないように改革を行おうとする勢力が現れます。彼らは武力によって蜂起し、江戸幕府を倒しました。これが「明治維新」です。f:id:miyukiyasmaro:20191207223314j:image

 幕府に代わって新政権となった明治政府は、大久保利通岩倉具視を中心とした独裁的な政権でした。明治政府の行った改革はあまりにも急速過ぎて、当初は国民から毛嫌いされていました。そうした側面もあり、大久保利通の友人であった西郷隆盛は明治政府を倒そうとしたわけです。これを「西南戦争」と言います。

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 明治政府はこれを鎮圧し、西郷隆盛は死亡しますが、間もなく大久保利通は暗殺されます。

 このように民意に反した明治政府の改革でしたが、この改革によって日本が列強に対抗し得る強い国となったのは確かです。政治の仕組みや国民の生活は近代的になり、技術も急成長し、軍隊も整備されていきます。

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 一方その頃、遥か北で、ある巨大な列強国が大暴れしていました。その国の名は「帝政ロシア」。圧倒的な軍事力により破竹の勢いで南へ侵略し、植民地では残虐な支配体制を敷きました。列強に支配されるということは、名誉も権利も失って彼らの家畜になるということを意味します。

 列強の下での植民地は、具体的には以下のような状態でした。

土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、白人の資本投下によるプランティションで行われたが、それは無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。
その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。ジャワでは人口33万の町が12万に減少したり、インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加し、1877年の南インドの飢饉では5百万人が死亡し、1943年での犠牲者はベンガル地方だけで340万にも達した。

(中略)

 列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ
イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。当時のイギリスの『タイムズ』紙は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』と報復を訴えた。事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。
フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まるといわれた。1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」
アメリカとて例外ではない。米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を制圧した。また、1906年アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった。https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/847

 この時日本は、断崖に立たされていたと言えるでしょう。このまま行くといずれロシアは朝鮮半島を飲み込むからです。ロシアが朝鮮を支配すれば、そこに軍港が作られる筈です。そうすれば、ロシアはその軍港から日本を侵略することが可能になるのです。

 

■朝鮮や満州への進出

 そういうわけで、朝鮮だけはロシアの手に渡って欲しくない日本。当の朝鮮は清(現在の中国みたいなもの)に従属しきっており、「どうせ清が助けてくれるだろう」という態度です。清は自国以外の国をナメきっており、列強に対抗する力を蓄えようとはしていませんでした。

 このままでは朝鮮はロシアの手に渡ります。そこで、日本はロシアより先に朝鮮を制することにしたのです。当然それを容赦する筈のない清は激怒し、かくして日本と清は朝鮮を巡って戦争を行いました。これを「日清戦争」といいます。

 軍事力で差をつけた日本はこれに圧勝しました。そして、日本は清と条約を結び、賠償として朝鮮の一部、遼東(りゃんとん)半島をせしめることが決定されたのです。f:id:miyukiyasmaro:20191207221429j:image

 しかし、ここで強烈な邪魔が入ります。フランス、ロシア、ドイツが日本に向けて「遼東半島を清に返してあげなさい」という勧告を下したのです。これを三国干渉といいます。流石にこの要求をはねつけるほどの力はなかった日本は、歯を食いしめて遼東半島を手放しました。

 この深い悔しさが日本国民を強く結束させ、日本はさらなる軍事力の強化を行います。そして三国干渉の八年後、ロシアが手にした遼半島の軍港に目掛けて、日本は魚雷を放ちました。こうして日本とロシアは壮絶な戦いを始めます。これが日露戦争です。f:id:miyukiyasmaro:20191207211926j:image

 常識的には日本が勝てる筈はありませんでした。国力や軍事力で圧倒されていたのです。しかし、巧みな戦術を弄した軍人たちの活躍やイギリスの協力などもあり、日本は一時的にロシアを押すことができました。この日本がロシアを押したタイミングで、外国から日本とロシアが仲直りするよう圧力が掛かります。このようにして日露戦争は、日本が勝ったことになったのです。その結果、日本はロシアから満州や朝鮮の一部の権益をせしめます。

 朝鮮へ勢力を進出させた日本は、数年後に日韓併合を行います。

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 これが後に韓国とのいざこざの原因となるわけですが、この際、日韓併合についての誤解を正しましょう。反日デモを行う一部の韓国人は「日本は無理やり韓国を侵略し、植民地にした!」と言います。しかし、実際は法的な手続きを経て日韓併合は行われたわけで、無理やりというのも侵略というのも間違いです。また、「併合」というのは一つの国になることです。韓国と日本が一つになったわけですから、「植民地にした」というのも間違いです。

 このように言うと「そんなのは揚げ足をとっているだけだ。実質は植民地だ」という反論があるかもしれません。しかし、日本は韓国へ莫大な予算を投じていました。その額は日本へ投じられる予算よりも大きかったのです。植民地とは絞りとる為のものです。けれども日本は韓国を絞りとるどころか、韓国へお金を注入しまくったわけです。ですから、名実ともに韓国は日本の植民地だったわけではありません。

 といって、別に韓国へお金を投じたのを恩着せがましくするつもりはありません。韓国への投資は韓国を強くする為であり、ロシアから日本を守る為でもあります。これによって一部の韓国人の尊厳が踏みにじられたのも確かかもしれません。ですから、日韓併合が正義だなどというつもりはありません。

 但し、日韓併合がなければ韓国に優れたインフラが整備されることも、教育が行われることも、ロシアの苛酷な支配から免れることもなかったということは忘れないで欲しいものです。

 

 一方満州では「関東軍」という軍隊が置かれ、治安が維持されましたが、厄介なことが起こります。それが反日です。当時中国は様々な勢力に分かれ、戦国時代さながらに乱れていました。その勢力の一つ、蒋介石(しょうかいせき)を筆頭とする「中国国民党」が激しい反日工作を行っていたのです。f:id:miyukiyasmaro:20191207220041j:image

 彼らの数は三十万人に膨れ上がり、それに対して満州に駐留する関東軍は一万。関東軍の指導者は「このままでは中国国民党に襲われる」と考え、日本政府の許可も得ずに暴走し、中国国民党との戦いを始めました。

 これを満州事変といいます。中国と日本とのバチバチはこれが原点なのかもしれません。

 関東軍一万人は中国国民党員三十万人を追い出し、「満州国」という国家を建設しました。教科書に従っていえば、この満州国は日本の操り人形のような国ということになります。日本政府によって満州の政治はコントロールされていたとのことです。一方、満州国の閣僚は全員満州人であり、日本が満州国を操るのは不可能だという反論もあります。

 

■なぜ戦ったのか

 さて、長らくお待たせ致しました。これらの歴史を踏まえて日本がなぜアメリカと戦ったのかを書いていきます。

 結論から言うと、日本が戦ったのはアメリカにより戦わざるを得ない状況に追い込まれた為です。

 まずアメリカは、日本と敵対していた蒋介石と手を結び、物資を援助しまくりました。また、アメリカ人が中国国民党と混ざって戦闘するということもありました。こうすることによって、日本と戦争をしていないという形で日本を攻撃したのです。

 東京裁判の検察側もこの事実をはっきり認めて、「アメリカ合衆国が中国にたいして、経済的にも、また、軍事材料の形においても、非交戦国としてはかつて見られなかった規模において援助し、かつアメリカ市民の若干の者は、日本の侵略にたいして、中国人とともに戦闘に参加した」とのべている。これは英国も同様であって、記録によれば米英の軍事顧問団だけでも数百名にのぼり、戦闘に参加した米英人は二千名を越えている。

 日本政府は抗議したが、援蒋行為はますます拡大し、アメリカ空軍は軍事物資を重慶に空輸しはじめた。これは明らかに戦争である。

 

林房雄大東亜戦争肯定論」 中公文庫

 アメリカは各国と協力し、外国から日本へ石油が輸出される経路を断絶。これをABCD包囲網といいます。f:id:miyukiyasmaro:20191207215135j:image

 ABCD包囲網により、日本は石油を得る手段を失います。近代的な軍隊、特に海軍にとって血液のように必要不可欠な石油を失った日本は、またしても存亡の危機に立たされます。

 更に、日本はアメリカから「ハルノート」と呼ばれるものを突きつけられます。ハルノートには、「日本は明治維新以降から手に入れた土地を全て手放せ。さもなければ戦争を仕掛けるぞ」という内容のことが書かれていました。

 幕末からの歴史をおさらいした皆様は、このハルノートがどれだけ重大な要求をしているのかお分かりではないでしょうか。日本が領土を拡大したのは、単に野望があったからではありません。確かにそうしたことを考えていた軍人や政治家はいたかもしれませんが、あれは日本を守る為でもあったのです。ハルノートを飲めば、日本は列強から自国を守る術を失ってしまうのです。

 それに、日本は領土拡大の為にかなり苦心してきたのです。大久保利通の時代では、民意を犠牲にして近代的な技術力を築きあげました。そうして日清戦争で清と対決し、けれどもそれは無駄になって、歯を食い締めてさらに努力し、死物狂いでロシアを打ち破りました。そこでは大勢の犠牲者が伴いました。それから韓国を手にし、莫大な国家予算を注入し、近代国家に育てたのです。

 これらの努力を全て無駄にするなどということを、果たして日本国民は納得するのでしょうか?

 血の滲むような長年の苦労を無駄にしてまで丸腰になり、国家を存亡の危機に立たすのか、それともアメリカに歯向かい無謀な戦争を始めるのか。日本の指導者が選んだのは後者でした。

 こうして日本はアメリカとの戦いを始めたのです。

 

大東亜戦争という呼称

 真珠湾攻撃については、教科書では「日本は宣戦布告なしにいきなり攻撃をした。卑怯な奇襲だった」などと書かれています。これに対し、「政府は確かに宣戦布告を行った。大使館がサボってたからアメリカに遅れただけだ」などという反論があり、それに対して「わざと遅らせたに違いない。結局は奇襲だ」という反論もあります。

 これらの議論については検証が難しく、時間が足りなかったので、申し訳ございませんがここでは立ち入りません。ただ、一様に「奇襲」と確定しているわけでなく、様々な見解があるということだけは知って頂きたいものです。

 

 さて、この真珠湾攻撃を火蓋に、日本はいよいよアメリカと戦争を始めます。この戦争は「太平洋戦争」と呼ばれています。アメリカと日本が太平洋を戦場に戦ったというわけで、太平洋戦争というわけです。

 けれども、皆様にはこの戦争に別の呼称があることを知って頂きたいものです。アメリカが日本を占領し、教科書や新聞、本に手を出す以前は、この戦争は別の名前で呼ばれていました。それが、大東亜戦争です。

 当時日本は、白人からの東アジアの解放を掲げていました。東アジアの国々が、各々の権利と誇りを取り戻すべく立ち上がる。いなる東亜細亜(アジア)の戦争。そういう意味を込めて「大東亜戦争」と呼んだわけです。

 勿論、「そんなのは戦争をする大義名分を得る為の建前に過ぎない」という意見もあるかもしれません。そして、それはある意味で正しいのかもしれません。日本も好き好んでアメリカと戦うわけはなく、国民を納得させる為に大義名分を用意する必要はあったはずです。

 しかし、あの戦争が東アジアに与えた影響は決して無視してはなりません。日本は白人から奪った土地にインフラを整備しました。それが近代国家として立ち上がる土壌でもあったのです。

 また、当時は日本人が信頼され、白人を追い出す為の英雄として歓迎された地域も確かにありました。

 ベトナムで戦った元日本陸軍の隊員、東部第50部隊松本連隊所属の「倉石隆之」さんはこのように証言されています。

https://youtu.be/tM5GLD_egsM
https://youtu.be/tM5GLD_egsM

 日本は要するにね、追っ払ってくれって言われてた。今の米英の鼻の高いのを「泥棒だから」

(中略)

 俺たちが外国へ行くでしょ。そうすると何も言う前に「日本軍万々歳」って漢字で書いてくれるんですよ。「日本軍万々歳伝来大歓迎」って書いてくれる。

(中略)

 向こうの人はね、全部友好的にね。

 日本の兵隊は少ないから、私の方も大体歩兵補でね、150人くらいいたんだけどもね、ちょっと足りないもんだから、向こうの人がね、10人くらい手伝いっていうかね、日本の軍隊と同じ格好をして、私たちと一緒に飯食って寝て、毎日同じような行動とってくれました。

 教科書では、日本軍は植民地にしたところから苛酷な搾取を行ったかのように書かれています。しかし、このように現地の方々に信頼され「東アジアの独立」という目標に向かって協力したような地域もあったのです。

 勿論、もしかしたら日本軍が残虐なことをした地域もあったかもしれません。あまねく戦争は悲惨なものです。酷いものです。ですが、我が国の教科書は戦争の負の面ばかりを強調し、わたしたちの祖父が良いこともしたということを抹消するかのようです。これは先の戦争で命を掛けた方々への侮辱ではありませんか。

 

■あとがき

 最後に、真珠湾攻撃から始まった戦争がどのように収束したのかを見てみましょう。

 大日本帝国軍は、極めて迅速に東南アジアへ進出。彼らは圧倒的な兵力の差を覆し、白人たちを追い出しました。

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 しかし、この戦況は僅か一年で逆転し、日本は徐々に追い詰められていきます。次第に政府や軍の体制は病的になり、極端な教育が行われたり、残虐な作戦が決行されるなどしました。戦争の後期では特攻という壮絶な作戦が実施されます。特攻については「多くの若者を犬死にさせた」という見方が主流ですが、敵側には士気の面で大きな影響を与えました。命もろとも投げ出して攻撃する日本の兵士を見て、ノイローゼになる隊員もいたそうです。

 そして、アメリカによって広島に原子爆弾が落とされ、日本は降伏して戦争は収束します。f:id:miyukiyasmaro:20191207221650j:image

 アメリカを中心とする「GHQ」によって日本が占領されると、極東軍事裁判東京裁判)というある種の儀式が始まります。日本の軍人、政治家、言論人が被告となり、戦争犯罪者として裁かれたのです。連合国側が行った虐殺、暴行は棚に上げられ、「被告人全員死刑」という結論ありきで、裁判という体裁のものが進行しました。そんな中、インド人のパール博士は最後まで「全員無罪説」を唱えました。彼の努力も忘れてはなりません。f:id:miyukiyasmaro:20191207221630j:image

 こうして「日本人はアジアの人たちに悪いことをした」という歴史は形作られました。GHQは教科書に手を加え、戦争に名誉を求めた新聞や小説を規制し、わたしたちの記憶を書き換えました。かくして現代の日本は形作られます。

 

 全ての戦争は悲惨で残酷なものです。戦争より話し合いで解決する方が望ましいに決まっています。しかし、国民を守る為には武器をとらざるを得ない状況も想定するべきなのです。

 武器を捨てて無抵抗になり、他国から占領され、虐殺され、名誉も権利も奪われた家畜としていたぶられることを「平和」と呼ぶのなら、そんな平和は放棄するべきです。

 わたしたちの祖父はそうした空虚な意味での平和を放棄しました。そして戦争を選択しました。戦争を選ぶということは、罪のない多くの人を殺すことを意味します。どんな事情があっても、それは確かなことで、わたしたちが背負うべき罪なのです。

 しかしその一方で、わたしたちの祖父が誰かを救ったのも事実です。それは絶対に忘れてはなりません。

 

 最後までお読み頂きありがとうございました。

 毎週お読み頂いている心優しき読者の皆様にお知らせがあります。テスト勉強などの都合がありまして、来週は記事の投稿をお休み致します。もし楽しみにしておられる方がいらっしゃったら、申し訳ございません。