僕の名は靖麻呂

高校生 政治厨 軽度の神経衰弱

「一人で死ね」再考

 

「一人で死ね」という言葉が誰も救わないということだけは確かだと思っています。

 川崎市の彼は社会に、「一人で死ね」と言わんばかりに散々爪弾きにされたのだろうと思います。だから彼は、社会そのものを心の底から憎んで、自ら攻撃するに至ったのです。

 この国には彼と同じように、社会を呪っている人が密かに生きていることでしょう。そんな人たちが「死にたいやつは一人で死ね」などと聞いたら、より一層社会に対する恨みを深くする筈です。そしてこの恨みこそが、無差別殺人の犯人なのです。

 自分語りになりますが、私はかつてその「彼ら」の一人でした。窮屈な校舎の中で、人間のくだらなさや醜さにうんざりしました。そして、社会というものは全員自分の敵なのだと信じました。皆死ねば良いなどということも何度も思いました。自分を苦しめた社会への仕返しとして、自分の手で手当たり次第に人を殺す様子を夢想したこともありました。

 恥ずべきことですが、僕は本気で人を殺すことを考えていたのです。それは自分以外の人間は皆無価値で、冷たい鉄のような物質と同類だと思っていたからです。そんなことばかり考えていたから、自分自身冷たい鉄のような物質になっていました。

 今、僕は物質ではなく、温みのある生き物として、喜びとか悲しみを感じながら生きています。たまにうんざりしますが、それでも生きています。僕が持っているこの熱のようなものは、自分の手で作り出したものではありません。誰がか伝えてくれたものです。言葉や、音楽、絵を通じて、数えきれない人たちが与えてくれたものです。

 もしもこの熱を誰も伝えてくれなかったなら、僕は彼と同じことをしたかもしれません。

 

(ちょっと陰鬱な話になってしまったかもしれませんが、飽くまで過去の話でございます。現在の私は別に晩年の芥川ムードである訳ではなく、そこそこにウハウハやっておりますので、どうかお気になさらず)

 

 あなたが今生きているのも、誰かから伝えられた熱があなたの中に残っているからだと思います。失礼なことを言いますが、あなたが自殺したり人を殺していないのは、あなたの周りの人々のおかげだと思うのです。彼は多分、誰にも熱を伝えられなかったのか、心ない人に奪われたのか、知らずの内に少しずつ手放してしまったのだろうと思います。

 その為に、小さい子どもが苦しんで泣けば必ず起こるであろう痛みを、彼は失ったのです。そう思えば彼も不幸なのです。

 こんなことを言えば、

「あいつは悪くないというのか」

 と恐ろしい剣幕で怒鳴る人が必ずいます。

 確かに彼は悪い人です。人の命を奪いました。ご遺族の悲しみや怒りは計り知れません。ご遺族にとって、この事件が解決する日などずっと来ないのです。取り返しの付かないことをしたのです。

 しかし、殺人を繰り返し大きな声で糾弾することが、事件を減らすことに繋がるのでしょうか。小さな子どもの痛みさえ感じない者に、「死にたいやつは一人で死ね」などという言葉でその感情は伝わるのでしょうか。

 あの時、彼は不審な様子は一切呈さず、静かに近づいて犯行に及んだと言います。防犯対策をどれだけ強めようと、こればかりは防げなかったのです。

 ならばこの事件を教訓にする為には、我々自身がもう少しだけ、人の弱さや痛みに歩み寄るべきだと思います。「人」が「憂」いに寄り添うと、ほら、「優」という字になるでしょう。

 元犯罪者予備軍の分際で言うのも何ですが、優しさをどうか大事にして下さい。そして、あなたの温みを伝えて下さい。

 

 乱雑でちょっと不愉快な文にも関わらず、最後まで読んでくれたあなたに、心よりありがたく申し上げて筆を置きます。